鮨 丸喜

1951年創業
福岡県北九州市にある鮨 丸喜です。
※おまかせ完全予約制

物語

鮨 丸喜の物語。1951年に北九州で始まった丸喜の歩みと、初代、二代目、三代目へと受け継がれてきた想いを、女将の視点で綴ります。
鮨 丸喜の暖簾

ー 喜びを、握り続ける ー

丸喜は、1951年に北九州で始まりました。
このページでは、初代、二代目、三代目へと続く丸喜の歩みを、女将の視点で綴ります。

序章

【丸喜の始まり】

1951年。
戦後間もない北九州で、小さな寿司屋が暖簾を掲げました。

最後に理由は書きますが、ここから先の物語は、敢えて私(女将)の視点でお話しさせてください。

初代「伊藤一喜」は私の祖父です。

幼い頃、私は祖父に尋ねたことがあります。

「丸喜って、どうして丸喜なの?」

祖父は笑いながら答えました。

「一喜の『喜』を取ったんだよ。
自分の喜びを、みんなにも伝えたいから。」

その時はその意味がよく分かりませんでした。
けれど今なら分かる気がします。

初代、二代目、そして三代目。

それぞれ歩んだ道は違いますが、その想いだけは変わらず受け継がれていることを。

このページでは、丸喜が歩んできた道と、これから目指していく姿をお伝えしたいと思います。

第一章

【北九州を選んだ男】

初代・伊藤一喜は熊本県の出身でした。

戦前は大阪で寿司職人として修行を積みましたが、戦争で片目を失います。

料理人として、自分に何ができるのか。
その答えを探すように九州各地を巡り、修行を続けながら北へ向かったと聞いています。

当時の北九州は復興の真っ只中でした。

人が集まり、鉄が集まり、そして港には魚が集まる。
祖父はこの街に可能性を感じたのでしょう。

「ここでやろう」

そうして北九州で丸喜の歴史が始まりました。

八幡製鉄所
二代目の古い写真

二代目。
初代亡きあとも、五十年以上にわたり丸喜のカウンターに立ち続けました。

【二代目が守ったもの】

初代の祖父と二代目の祖母は夫婦でしたが、年齢が23歳離れておりました。

片目を失った初代に代わり、丸喜の顔として長く握り続けてきたのは、二代目の祖母でした。

当時としては珍しく、寿司を握る初の女性として新聞などの取材を受けていたそうです。

時代柄、多くの偏見もあったと聞いています。

それでも祖母は握ることをやめませんでした。

その後の祖母の活躍により、北九州には女性の寿司職人が何人も誕生したそうです。

先代の教えを守りながら、ただひたすらに。

祖父が亡くなったあとも握り続け、
五十年以上。

その姿勢こそが、今の丸喜の土台になっていると思います。

戸畑にあった旧店舗

戸畑にあった旧店舗。
看板には「丸喜食堂」の名が残されていました。

当時、丸喜は旧小倉駅前に店を構えていました。

まだ新幹線が開通する前のことです。

しかしその後、新幹線開通により小倉駅周辺の区画整理が行われることとなり、店は移転を余儀なくされました。

ちょうどその頃、戸畑では二号店として一軒の食堂を準備していました。

本来であれば「丸喜食堂」として営業する予定だったその店が、結果的に新たな丸喜の本店となったのです。

旧店舗をご存知の方は懐かしいかもしれません。

戸畑店の看板には、「丸喜食堂」と書かれていました。

結局一度も食堂として営業することはありませんでしたが、その看板だけは当時の名残として残り続けました。

私たちにとっても、お客様にとっても。
あの建物には多くの思い出が詰まっています。

そしてその戸畑の店舗で、後に三代目の物語が始まることになります。

初代から受け継いだ包丁

初代が使っていた包丁は、長い時を経て三代目の手に渡りました。
磨き直されたその包丁は、旧店舗から新しい店へと移り、今も日々の仕事の中で使われています。
受け継ぐとは、飾ることではなく、使い続けることなのだと思います。

大将が握る姿

第二章

【27歳の大将】

現在の三代目・村上卓は、
料理人ではありましたがもともと寿司職人ではありませんでした。

祖母のもとで修行を積みながらも、寿司に関してはまだ学ぶことばかり。

そんなある日、祖母が突然倒れます。

27歳。

大将としてカウンターに立つことになりました。

最初は先代の味を守ることだけを考えていました。

変えてはいけない。
守らなければならない。

そう思っていたのです。

しかし月日が経つにつれ、すぐに一つの疑問が生まれます。

北九州は魚に恵まれている。

けれど、それだけでいいのだろうか。

考え込む大将

第三章

【江戸前との出会い】

ある日、テレビで鮨職人の特番が放送されていました。

今も日本を代表する江戸前鮨の名店です。

そこで語られた言葉がありました。

「江戸前とは、江戸の前でとれたような魚でも、より美味しく食べさせる技術です」

その言葉に強く心を動かされました。

私たちは既に良い魚に恵まれている。

だからこそ、魚の力だけに頼ってはいけないのではないか。

もっとできることがあるはずだ。

そうして図書館に通っては古い文献を読み、有名店を訪ね歩きました。

北九州にいながら、あの感動を届けたい。

その想いだけを支えに試行錯誤を続けました。

見えない仕事

第四章

【見えない仕事】

私たちは「粋」という言葉が好きです。

派手ではない。
けれど、見えないところに心を尽くす。

表は地味な柄の着物の裏地に、手の込んだ装飾を見かけたことはありませんでしょうか。
少し歪んだ茶器に宿る美意識も、その一つだと思っています。

鮨もまた同じではないでしょうか。

お客様の前に出る頃には、既に多くの仕事が終わっています。

魚を手当てすること。

酢を合わせること。

温度を整えること。

隠し包丁を入れること。

そうした見えない仕事の積み重ねが、一貫の鮨を形作っています。

だから私たちは、できる限り余計なものを足しません。

丸喜のシャリには、砂糖を一切使っていません。

甘み、脂、旨みは、シャリで補うものではなく、魚から技術で引き出すものだと考えているからです。

それは、かつて北九州で親しまれてきた寿司とは、少し違う考え方かもしれません。

けれど私たちは、この街の魚に恵まれているからこそ、その魚の力をそのまま出すのではなく、技術によってもう一段奥へ連れていきたいと思っています。

魚を寝かせること。

切りつけを変えること。

温度を整えること。

酢と塩で輪郭をつくること。

限られた材料と技術だけで魚と向き合う。
それが今の丸喜の考える鮨です。

見えない仕事
トキシラズ

北九州ではまだ馴染みの薄かったトキシラズ。
珍しさではなく、美味しさのために向き合ってきた魚です。

第五章

【魚の力だけではなく】

新しい食材への挑戦も続けてきました。

トキシラズ。

メヒカリ。

当時は北九州では見かけなかった魚たちです。

仕入れ先と相談しながら試作を繰り返し、どうすればもっと美味しくなるかを考え続けました。

私たちが目指したのは珍しさではありません。

魚の力だけでは届かない美味しさです。

その積み重ねが、多くの同業者の方とのご縁を生み、やがてミシュランガイド掲載や食べログ百名店という評価にも繋がりました。

現在の店内

第六章

【北九州で旅をする】

私たちが目指しているのは、予約の取りにくい店でも、有名な店でもありません。

この北九州にいながら、

まるで旅をしたような時間を過ごしていただくこと。

遠くまで足を運ばなくても、

心が少し動くような体験をしていただくこと。

そのために魚だけでなく、

お酒やお茶、

器や空間、

そして時間そのものと向き合っています。

現在の握り姿

終章

【丸喜とは】

「自分の喜びを、みんなに伝えたい」

私が幼い頃に祖父が語ったその言葉。

長い年月を経て、今ようやくその意味が分かるようになりました。

北九州に根を下ろした初代。

その教えを守り続けた二代目。

そして、その想いを新しい形で届けようとしている三代目。

この3人の後ろ姿を私はすぐ近くで見ています。

だからこそ、このページについては私が書かなければいけないと思いました。

時代は変わっても、

私たちが目指すものは変わりません。

お客様に喜んでいただくこと。

そのために技術を磨き、学び続けること。

そして、この街で鮨を握り続けること。

それが、丸喜です。

現在の看板

鮨 丸喜